バンコクでプラープダー・ユンさんに会う

プラープダー・ユンさん

3月のタイ調査の下準備のために2月17日から24日までバンコクとチェンマイにリサーチに出かけた。

バンコクでプラープダー・ユンさんに会う。ユンさんは現在バンコクをベースにアジアを行き来しつつ、出版社、書店を経営し、自ら執筆やデザインも手がけている。
バンコク・アート&カルチャーセンター(通称:BACC)の1階にある「ドリップ・カフェ」が打ち合わせの指定場所である。ユンさんは、オーケストラのプロジェクトにいろいろな反応・意見を示してくれる。オーケストラの初調査地であるフィリピン・シキホール島に、日本財団のサポートを得て長期滞在したことがあるということを聞いて驚いた。シキホール島は決して知名度のある島ではない。「なぜシキホール島に?」と互いに驚いた。ユンさんは「黒魔術の島でフィリピンの人は決して行きたくないというところに惹かれた」ということである。泊まったホテルも同じだった。2時間程話をして、4階のユンさんが経営する文芸書専門の書店に移動し、「今後是非一緒に」ということを確認し、別れた。どのような形になるか分からないが、ユンさんがアンサンブルズ・アジア・オーケストラに加われば、きっと思いも寄らない物語を描いてくれるのではないだろうか。

ユンさんは、京都でSANDWITCHというクリエィティブ・プラットフォームを主宰している彫刻家の名和晃平さんを介して知ったのだが、ユンさんによると、石川直樹さんは古くからの友人でいつか一緒にプロジェクトをやろうと話していた仲だということだ。そういえば石川さんの「フィリピン・シキホール島紀行」の中で「タイの数少ない友人の一人からフィリピンの島でナオキが絶対好きな島があるよ。シキホール島といって、ブラックマジックで有名なんだ。やばい島なんで、是非行ってみてと言われたことがある。」という記述がある。このタイの友人はユンさんに違いない。さらに国際交流基金アジアセンターの吉岡さんは、吉岡さんがバンコクに駐在の頃からの知り合いで、ユンさんが脚本を手がけた『地球で最後のふたり』の登場人物のモデルになっているそうだ。

これは決してただの偶然ではないはずだ。「オーケストラ」をきっかけにして、断片的な人のつながりを辿っていくと思わぬ発見があり、音楽と音楽以外の何かをも生み出していくことになるのかもしれない。

プラープダー・ユン
1973年8月2日 バンコクでネーション・マルチメディア・グループの経営者、編集者でもあるスッティチャイ・ユンと、雑誌『ララナー』の編集長をしていたナンタワン・ユンの息子として生まれる。中学校卒業後に渡米し、1997年にニューヨークのクーパー・ユニオン芸術学部(Cooper Union School of Art)を卒業。1998年タイ王国軍の兵役に就くために帰国するまで、ニューヨーク・マンハッタンでグラフィックデザイナーとして活躍していた。兵役終了後、さまざまな雑誌に短編やコラムを寄稿し始める。その頃から短編集、エッセイ集、小説などを出版する。テレビ番組の脚本も行い、タイの絹織物商ジム・トンプソン失踪に関するストーリーの『絹の結び目(Silk Knot) 」を制作。また映画脚本も書いており、ペンエーグ・ラッタナルアーン監督による『地球で最後のふたり』(2003年)、『インビジブル・ウェーブ』(2006年)も手がけた。2002年29歳の時に小説『存在のあり得た可能性』で東南アジア文学賞を受賞した。2004年には、タイ政府文化省芸術局の依頼により、スマトラ島沖地震に関する作品を作成。同年に出版社タイフーン・ブックスを設立した。2003年から2007年まで雑誌『EYESCREAM』にてエッセイを連載。2008年5月より『エスクァイア』誌でエッセイを連載中。日本文化への造詣も深く、たびたび日本を訪問している。