JAMJAM日記|インドネシア編 大友良英 Otomo Yoshihide

撮影:石川直樹

2014/12/07

午前中はデンパサールのSAHADEWA(サハデワ)でガムランの公演。実際の祭りのガムランは何時間もやってトランスまでに至るものを1時間ほどの公演にした観光ガムランではあるけれど、とても良く出来ている。面白かったけど、でもまぁ、わざわざ連れて来てくれたヴェンザには悪いけど、観光ガムランにはさほど興味はないなぁ。ごめん。

ガムランの公演(撮影:石川直樹)

ガムランの公演(撮影:石川直樹)

昼食後は車でバリの西海岸を北上、数時間走ったところでシンブラナ県ヌガラ郡サンカルアグン村に到着。ここは竹のガムラン「ジェゴグ」の村として有名なところだ。70年代に「ジェゴグ」を復活させたイ・クトゥ・スベントラ氏率いるスアル・アグン芸術団のスタジオと言っていいのかな、拠点というべきか、大きな庭のあるセンターに到着。早々スベントラ氏が僕らを出迎えてくれる。日本語と英語の両方が出来る氏は、庭に置かれた数々の竹の楽器の説明を演奏しながらしてくれる。オレも巨大な竹の楽器ジェゴグを演奏させてもらったけど、かなりのハードワークだ。実際に最低音を出す楽器ジェゴグは2人の奏者が交代で演奏するそうだ。

ジェゴグを演奏させてもらう(撮影:石川直樹)

「ジェゴグ」復活物語

この後は恒例の開沼さんのインタビュー。興味深い話が沢山でてきたけど、とりわけジェゴグが復活する切っ掛けになったエピソードは面白かった。曰く、もともと20世紀初頭のスベントラさんの祖父等が始めていた竹のガムランは、1940年代オランダの統治下で、竹が武器になりかねないというのと、住民の集会を恐れるオランダ政府によって禁止令が出て、一旦滅びてしまったそうだ。なのでスベントラさんはオリジナルの竹のガムランを聞いたことがなかったそうだ。ところが1970年に行われた大阪万博に音楽家として行ったスベントラさんは、自分が出演するインドネシア館で、たまたまおじいさんたちがやっていた竹のガムラン演奏の古い録音テープを聞くことができ、そこで初めて聴く祖父等の演奏による竹の音に魅了されたのが「ジェゴグ」復活の切っ掛けになったそうだ。僕ら日本のバカガキが(当時オレは小学校5年生だった)未来に夢を馳せ、高度成長期の行き詰まりで実際にそんな未来はやって来ないんだってことが大人たちには見え隠れしだした1970年の万博で、こうして本当に未来につながるようなことが起こっていたんだとすると、太陽の塔も捨てたもんじゃないなぁって思う。

大友良英とジェゴグ(撮影:石川直樹・有馬恵子)

インタビューが終わり、日も暮れだす頃になると、村の演奏家が少しずつ集まって来て演奏の準備が始まる。10代の青年からお年寄りまで、多くは普段農業をやっていたり運転手さんだったり別の職業を持っている人たちだ。楽器置き場から中庭に持ち出される竹の楽器の数々を見てるだけで壮観だ。ランタンの照明が灯りだすと同時に演奏が始まる。まずはその音に圧倒される。録音では何度も聴いてきたジェゴグだけど、やっぱり生は凄い。凄いなんて言葉じゃ言い足りないくらい凄い。

ジェゴグ(撮影:石川直樹)

スベントラさんがやってきて、楽団の中に入って聴いていいからと、導いてくれる。この先インドネシアで沢山見ることになる村のガムランはどこもそんな感じで、ステージと客席の垣根みたいなものは一応あるけど、でもかなり自由な感じで、聴き手の僕らも自由に楽団の中に入って行って聴いたりできるような場合が多かったりするのだ。オレは一番低い音の出るジェゴグの下に入り込んでみる。アコースティックとは思えない巨大な強い低音が脳髄にまで響き渡る。その後も位置を変えていろいろな場所で聴いてみた。音色だけではなくリズムやその構造、どこをとっても凄くて、いや~、もう本当に面白かった。そして感動した。だだ、オレの中で、一つ大きなひっかかりもあって、その後の車の中では、そのことばかりを考えていた。そのことについて、誤解されるといけないので、少し丁寧に書きたいと思う。

スアール・アグン楽団によるジェゴグの演奏(撮影:有馬恵子)

スベントラさんはオランダに留学経験のある音楽家だ。西洋の音楽のマナーも構造も十分に知っている人でもあって、それがあったからこそ、自分たちの祖先がやっていた「ジェゴグ」を復活することもできたんだと思う。そのことは本当に素晴らしいことだと思う。本番前のインタビューの中で彼はこんなことも言っていた。

「バリのガムランのもともとのやり方、例えば座りながら下をうつむいて演奏するようなスタイルでは西洋に通用しにくいのではないか。だから私は西洋の演劇的な要素も取り入れて、観客に向かってアピールできるようなスタイルにしたんです。」

確かに「ジェゴグ」を演奏してるとりわけ青年たちは、見事な体の動きと振りで、音を出す際に観客へのアピールをしっかりとやっている。キメのポーズみたいなもんもあったりして、確かにこれは、これから見ることになるインドネシアのさまざまな地域のガムランの演奏とは全然異なる。だからこそ「ジェゴグ」は地元だけではなく国際的な舞台でも大きな評価を得て来たんだと思う。

これを考えていたとき、なんとなく思い出したのは日本の和太鼓アンサンブルのことだった。あの有名なふんどし姿で巨大な和太鼓を集団で演奏する鬼太鼓座のことだ。彼等がふんどし姿で演奏するようになったのは、70年代初頭、フランスで公演する際に西洋の観客にアピールするために、ファンションデザイナーのピエール・カルダンの提案だったって話は有名だと思うけど、何かこの2つは似ているような気がしたのだ。

アジアって言葉を使うときに僕はいつも心の中で一瞬の躊躇をしてしまう。ほんの一瞬だ。いちいち躊躇していたら話が先に進まないから、それでもアジアって言葉を使ってしまうけど、そこにはいつも引っかかりがあるのも事実で、なんだかそのことと「ジェゴグ」や鬼太鼓座の話はリンクするように思うのだ。

アジアってなんなんだろう。

僕らは日本も韓国も、中国も、インドネシアもフィリピンも、そしてインドもパキスタンも、何でアジアって言い方でくくれるって思ってしまうんだろう。そもそも何に対してアジアなのかって考えていけば、そこから見えてくるのは、西洋社会の存在だったりもするわけで。

「アジア」という言葉に思うこと

自分の話をしよう。1990年代前半、オレはヨーロッパの即興演奏やフリージャズ、前衛音楽をやるような現場に頻繁に呼ばれるようになっていた。年の半分はそういうサーキットの中で演奏しながらツアーをしていた、そんな時期だった。なんでそうなったかと言えば、まあ自分で言うのもなんだけど、多分そこそこはいい即興演奏をしていたってのが第一、そしてもう一つは、東洋人あるいは日本人だったからだとも思ってる。当時行く先々でインタビューを受けることが多くて、そのときにお決まりのように聞かれた質問が「なぜ日本人がノイズや即興をやってるのか」あるいは「あなたの音楽は禅にどう影響を受けているのか」といった類いのものだった。

最初のうちはインタビューを受けるだけで嬉しかったから、このお決まりの質問にもどうこう思うことはなかった。でもそのうちイライラしだしたのだ。そんなときには決まってそっけない口調で「いや禅なんかやったこともないし興味もないです」なんて答えるようになっていた。さすがに鈍いオレでもあるとき気づいたのだ。この人たちは決してイギリス人には「なぜイギリス人がノイズや即興をやるのか」とか「あなたの音楽は英国国教からどういう影響を受けているのか」とは聞かないはずだということを。

これを人種差別とか、あるいは西洋中心主義とか言ってしまうのは簡単だけど、事の根本はそれだけだろうか? だいたいまずアウェイな土地に行けば、そこの土地の人からみたらアウェイな人が来たってだけで価値が出るのは、まあエンターテインメントの世界では当然の事で、だからイギリス人が日本に来たら逆に「なぜイギリス人がノイズや即興を……」って質問は当然出てくるだろう。それに僕らの側だってその需要に応えていたようなところもあったはずだ。東洋人がターンテーブルをフィードバックさせて狂気のような大音量で演奏をしている……多分、最初の頃のオレのヨーロッパでのイメージはこんなところだったと思う。そしてオレは多分そのイメージであることを分かっていて、悪い言い方をすれば、それを利用させてもらったんだと思う。このときに、オレは西洋の文脈の音楽言語を使いつつも、どうせ西洋人のようにやったところで、アジア人の身体性やリズム感は出てしまうんだから、無理してアジアっぽくする必要もない……そんなふうにはっきり考えてもいた。そしてそうすることが自分の個性を出すことだとも。でもそれで良かったんだろうか。

ふんどし姿でフランスの舞台を踏んだ鬼太鼓座のことをオレは批判できるだろうか? 自分も同じようなバリエーションではなかったのか? アジアという言葉を使うときの一瞬の躊躇は、多分この体験から来ているんじゃないかと思っている。

1990年代の大友良英(第二期グラウンドゼロ)

何でただ座って下を向いて演奏していてはいけないんだろう。そんな演奏があっても全然いいではないか。前を向いて観客にアピールするだけが音楽じゃない。今ならはっきりそう言える。でも20年前のオレはそんなふうに言えただろうか。ましてや30年も40年も前、西洋に「ジェゴグ」を持って行こうと考えたときに、もっと観客にアピールできるような方法を取るべきだって考えたのは当然のことだろうって思う。

何か結論のない話を書いてしまったけど、車中でずっと引っ掛かっていたのはこのことだった。そして、これからアジアのいろいろな地域でオーケストラをつくる際に、それがどういうオーケストラかはまだ分からないけれど、でも、座って下をむいて演奏している人がいても全然かまわないオーケストラに出来ればいい ……自分がそう思ってることだけははっきりと分かった。

その後、車はバリ島最西端の街Gilimanuk(ギリマヌック)に到着、ここから1時間ほどフェリーに乗って深夜12時にジャワ島最東端の都市Banyuwangi(バニュワンギ)に到着。日本で出ているインドネシアのガイドブックを見ても、まず出て来ることのないこの街が、ヴェンザや運転手のアグスの故郷の街だ。

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Banyuwangi(バニュワンギ)

インドネシア、ジャワ島東端の港湾都市。バリ海峡を挟んで対岸にバリ島が浮かぶ。長らくヒンドゥー教国のバランバンガン王国の支配下にあったが、18世紀末にオランダ領となった。コーヒー、米を産する。近郊にバンテン(水牛)が生息するバルラン国立公園がある。
出典:デジタル大辞泉

フェリーから(撮影:石川直樹) フェリーから(撮影:石川直樹)